まやかしの森 6  2008.1106


驚いたように大きく開いた、涙で濡れた泰明殿の目は、
光りを含んで綺麗だった。
そのまま動かない彼はとても無防備で、少し心配になる。

「大丈夫ですか?」

様子をうかがうように、恐る恐る覗き込む。
ゆるやかに眼を少しふせて、泰明殿がうなずくように俯いた。

しばらくは、このまま傍に居るのが良いだろう。そう思い、
何も言わずに座りなおそうと体を動かすと、
無意識だった体の数箇所に、痛みを感じた。

ふと。先刻の出来事が蘇る。思い出したように髪に手をやると、
髪筋があまりに乱れていて、慌てて手櫛でそれを大まかに整えた。

「怖くはないのか?」

俯いたまま、ぼつりと声を少しかすれさせて、泰明殿がそうたずねた。

怖くはなかった。本当に自分でも不思議だと思う。
あのような乱暴を受けた事など初めてで、
子供のように泣きじゃくっていたというのに。

不思議だった。

「はい」

顔を上げた泰明殿に、笑う。
どうしてだ、と言いたげな目を、少し困った思いで受けながら、

「どうしてでしょうね、少しも、今は怖いとは・・」

泰明殿は、無造作に組んでいた脚を腕にかかえて、
再び、うずくまるように俯いた。

「私は、怖い」

よく見れば、泰明殿の髪も乱れて、まとめた束から一筋、
髪が緩んで首筋を隠していた。

「帰れ」

言われたそれは、意外な事だった。

「え・・」
話の流れから孤立しているように思える言葉。
少し顔を上げた泰樹殿の目は、にわかに鋭い。

「ですが、今、怖いと泰明殿は・・」
「だから、帰れと言っている」

はあ、と、曖昧に返事をしながらも、そのお姿はとても頼りなく、
置いて帰るにはあまりに心配だった。

「二度と、私には会いにくるな」

氷を胸につきたてられたように、その言葉は、
私の心を冷たくじわりと痛ませる。

「な・・」

出そうとした声が滑らかでなく、思う以上に動揺している事を知る。
膝の上で合わせていた手を握り締める、先刻の傷の痛みが蘇った。

「どうしてですか」

俯いたままの泰明殿の横顔を見つめる、頬にかかった遅れ髪が、
その表情を隠して、思いが読み取れない。

どうして自分を拒絶する相手に、こんな風に、
自分をぶつけるように問うような事をしているのか、
自分自身解らなかった。心臓の音が高く、体に響く。 

ちらりとこちらに向けた泰明殿の視線を、真っ直ぐ見つめ返す。
恐ろしいのに、泰明殿から少しも顔を逸らそうとは思わなかった。

目を細めた泰明殿の、弱々しい様子が意外で、かえって、
見つめ返す力が抜けた。ふと俯いた途端に、弱々しい感情が、
蘇るように心に生まれて、私は再び泣きたいような気持ちになる。

「何故、そんな顔をみせる」

緩やかで優しく聞こえた泰明殿の声は、
ただ、いつもより弱々しいだけなのかもしれない。

「会わなければ、お前を苦しめる事は無い、なのに」

私に発せられたその言葉はまるで、独り言のように、
はりが無くゆれて勢いがない。

「どうして、会うなと言っても苦しそうな顔をする?」

言った泰明殿のほうが、よっぽど苦しげに顔を歪めた。
拒絶の意味を知って、心が開放されたように、軽くなる。

「わ、私は、泰明殿にお会いして苦しんだりは致しま・・」
「先程のような目に遭ってもか?」

苛立ちと、焦りが滲んだ不穏な泰明殿の声に、私は息を呑む。

「わたくしは・・」
「帰れ」

どくんと、心臓が大きく揺れて、熱い気も冷たい気もした。
投げられた問いの答えは到底思いつく余裕はなく、
ただ、今すべきだと、思った事は。

自分が、したいと思った事は。

「泰明殿」
「頼む・・」

周りを拒むように俯いた人の、苦しそうな声に、私は唇をかみしめた。

「お前を、苦しめたくは」

私の腕の中で。
泰明殿は言いかけた言葉を、途切れさせた。

今、彼を抱きしめる事が、どういった意味を成すか、
頭の隅で理解していたけれど・・


泰明殿を救いたかった。

もしも、私に。こんな私に、その力があるのならば、


ほかの事は、ぼやけたように、気にもならなかった。



 
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