まやかしの森 4


突然、この世界に現れたあの少女は、何時の間にか、
私の周りの空気をすっかり変えて、そして、

あっという間にいなくなった。

まるで、京を華やかに染めてたちまち散ってしまう桜のようだったけれど、
神子は、水一面を覆う花びらさえも残さずに、跡形もなく、
この世界から消えてしまった。

後に残ったのは、私の記憶に焼きついた、最後に皆の前で見せた涙と笑顔と、
今でも、時々ぶりかえす、胸の痛みだけ。



泰明殿に返す言葉を、探せば探すほど、答えが遠くなる思いがした。
泰明殿は、先程まで逸らしがちだったお顔を、今は背けることなく、
ぼんやりとした様子で、こちらに向けたまんま。

「そう、ですか。神子が」

何の意味も成さない台詞を呟いて、つい、俯く。

「おそらく、まじないを解いたのは神子だ」

流れるように紡がれた泰明殿の言葉に、私は顔をあげた。

「神子に、そのようなお力が?」
「いや・・解らぬ」

はっきりとしない自分の言葉に苦しむように、
泰明殿は顔を困ったようにしかめた。

「しかし、神子が私に与えた影響が、
まじないの解除に関わったのは、確かだ」

相変わらず、すぐに理解をするには解り辛い、彼の言葉を、
よく落ち着いて、頭で噛み砕く。

段々と、今までの彼の言葉が解かれていく気がした。
絡まってややこしく頭に渦巻いていたものが、すっと、
単純で解りやすく、とても美しい一つの事実に、まとまっていく。

「神子の清らかな優しさが、泰明殿の感情を蘇らせたのですね」

私の顔を、泰明殿は、とても驚いた様子で見つめた。
意外な反応に思わず、自分の言葉を自分自身不信に思いそうになる、
けれど、私はたどり着いたこの答えに、自信があった。

「私は、そう思います」
目をそらして、言った声に少し勢いがつかない。

「そうか」
返って来た泰明殿の声は、どこか穏やかだった。

「きっと、そうです」
柔らかい泰明殿の雰囲気も、思いついた事実も、
全てが嬉しく感じられて、思わず笑顔で彼を見る。

戸惑ったような顔で、泰明殿は何も言わなかった。
その不安定な表情はしだいに不機嫌な色を帯びる。

「もう、その話は良い」

いきなりの調子の変化に驚きを隠せず、私はただその様子を見つめる。

「泰明殿、一体どうしたので・・」
「どうもしない。いつものことだ」

苛立ちが隠し切れないくらいに含まれた、けれど、
危なげに弱くも思える口調。
息をつめて、何も言わずに、ただその様子を見守る。

「感情など・・」

彼の声がすこし揺らいだ。睨むように鋭い泰明殿の目線の先には、
何もない。ただ、実体のない森が広がるだけ。


「一人残されるなら、感情など無い方が良かった」
搾り出すような泰明殿の声は、静かに、空気を震わせる。


その振動に、縛られたような気持ちだった。私は動けず、
ただ、うつむいた泰明殿を見つめる。
言葉に組み立てられないほどに混ざり合った感情に、
胸をかき混ぜられて、痛かった。

「私には、抱えきれぬ」
「泰明殿・・・」
「永泉、お前は」

顔を上げた泰明殿は、知らぬ人のようだった。
私はこんな泰明殿を知らない。

人形のように整った作りの良く知る顔はそれをきりりと保つ糸が切れたように、
不安げに、心細く歪んでいた。

「お前は、このようなものを制する事が出来るのか?」
「泰明殿、大丈夫です、おちついて・・」
「大丈夫なものか!」

初めて聞くのではないだろうか。
泰明殿の鋭く感情的な怒鳴り声。恐ろしくは無かった。
以前の冷淡な物言いに比べれば、それは恐ろしいどころか

ひどく弱々しい。

「・・教えてくれ、どうしたらこれを制する事ができる?」

がくんと弱々しくなった声、苦しげな表情で髪をかきむしる泰明殿は、
どこまでも強く思えたかつての面影は無く、崩れ落ちそうで。

「泰明殿」

止める術など解らない。だからせめて、出来るだけ穏やかに名を呼んで、
今にも粉々になりそうな泰明殿のうなだれた頭を守るように、

そっと、両腕で包み込んだ。

「どうか、心をお静め下さい」

ゆっくりと、その髪を撫ぜる。
彼をとらえている苦しみを払い落とすように丁寧に。

失礼に当たる行為かもしれないのに、何故かこうする事に違和感は無かった。
泰明殿の様子はまるで、途方も無く泣き喚いている子供のようだったから。

私の腕の中で静かに、動かない泰明殿が、安らいだのかどうか、
私には解らなかった。

ただ、静かだ。 あんなにも乱れた波動を送っていた泰明殿の心が、
ぴた、と、動きを止めて静かに彼の中に納まっているのが、
なんとなく、私にも感じられる。
彼の安息を祈るように、そっと目を閉じた。

不意に、背中を泰明殿の両の手に掴まれて、息苦しいくらいに、
距離が縮まる。

すがりつくようなその行為をそれでも受け止めようと、変わらず、
そっと頭を撫ぜたら。さらに強く背に回された手に力がこめられた。

「泰明殿、息が・・」

苦しくて、目を開けて思わず呼びかけると、腕の中の泰明殿が、顔を上げた。
すぐ近くでしっかりと目が合う。

作り物のように整ったその両眼は思いのほか穏やかだった。
けれどその目にとらえられた瞬間、今まで感じた事の無い、
危機感にも似た思いがこみ上げた。

何なのかは解らなかったけれど、背筋に冷たいものが走る。
理屈ではない、本能的なものとしか言いようがない。


強く体をとらえられたこの状況を、初めて、恐ろしいと思った。

 
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