まやかしの森 2  2008.0808




普段から桂はそんなに賑やかな場所ではない。
今の時期は収穫する作物の種類も少ないのか、村は静かに、
一面の畑を緑に染める何かの野菜の葉が、風にゆれる音だけを響かせていた。

少し、心細さを感じたけれど、すぐに気を取り直し、
顔を上げた。 頬に感じた風が心地良かった。

村からは少し離れにある屋敷の前まで来て足を止める。

安部家の別宅で、決まった人が使っている訳では無いというその建物は、
さほど大きい訳ではないけれど、一人で使うには、
持て余してしまいそうな広さはある。

どうしたものか、少し考えて立ちすくむ。

恐る恐る、申し訳程度に儲けられたような門を押すと、
呆気なく門は開いた。そっと中を覗き込む。
目だった人の気配は感じなかった。ここに本当に、
泰明殿がいらっしゃるのかどうか。

息を、小さく吸い込んで
「ごめんください!」

こんな風に、門番の居ないお家を一人で訪ねる事に、私は、
ことさら慣れていなかった。何となく気恥ずかしいような気がしつつ、
そう言ってはみたものの。

返事はない。

「すみません!」

誰かがいらっしゃるとすれば、泰明殿だという事、
会わずに帰る事は出来るだけ避けたいという希望が、
行動を少々大胆にさせた。

きょろきょろとあたりを見回しながら、恐る恐る、失礼ながら、中に足を進めた。

普段誰も使っていないとは思えないくらい、美しく整った、
庭先の木々に、一瞬気まずさが増す。
もしかしたら、何らかの術の力が効いているのかもしれない。

勢いにまかせてさらに前にすすんで、屋敷の扉を開けた。
薄暗い、板の間が続いていた。人影は無い。

「泰明殿?」

呼びかけた声が、響いて吸い込まれるように消えた。
さすがに、勝手に上がりこむ事には抵抗がある。

意を決するように、大きく息を吸い込む。

「泰明殿! 居られませんかー!」

響いて返る自分の大声が恥ずかしい。すぐ、静寂に戻った空間を、
弱り果てた気持ちで見つめる。


「大声を出すな」


突然聞こえた声に私は飛び上がる程驚いた。

「泰明殿!?」

声の方に向かおうと、思わず勝手に履物を脱いで上がりこんでしまった。

「何故、驚く」

我に返って、また外にも戻り辛く、中にも進みにくく、立ち往生していたら、
板の間の横から日の光がさして、その扉の置くから、ふらりと、
懐かしい泰明殿があらわれた。

「居る事を知って来たのだろう」
「は、はい! 申し訳ありません、お許しもなく上がり込んでしまい・・」
「構わぬ」

背に光をあびているせいで、はっきりと姿は見えないけれど、
確認する限りでは、泰明殿は思ったよりずっと、お元気そうだった。

「あの、泰明殿・・」
「何だ」

大丈夫ですか?と、そうお伺いするのも気がひけるくらい、
普段通りに思える彼の受け答えに、かえって戸惑った。

「お元気そうで、安心しました」

緊張が解けた事もあって、顔が綻ぶ。しかし、それを聞いた泰明殿は、
ふいと、私に背を向けて、扉の向こうに消えた。
表の縁側と繋がっているのか、扉からは、明るい光。

「泰明どの・・」
「光の届かぬ所は、嫌いだ」

声だけが聞こえた。その言葉はなんとなく、泰明殿らしくない気がした。

「話したいなら、こちらに来い」
「は、はい」

慌てて扉に向かうと、中を覗き込む、予想外の光景に、
私は目を丸くした。

「これは・・」

安部氏が、施した術だろうか。

そこは広く取られた縁側だった。けれど、そこに続く外の景色は、
明らかにこの屋敷から見えるはずのない風景。

どこまでも深く続いているようにしか見えない、森。
茂った木々からこぼれる木漏れ日と空気は、とても透明で、
どう考えても、桂にはあるとは思えないものばかりだった。

「一々、驚くな」
「はい! す、すみませ・・」

明るみであらためて拝見した泰明殿は、無地の浴衣姿に、
結い上げずにただ一つにまとめただけの御髪。
色々と印象が違って見えて当然だった、けれど。

もっともっと大きく、何か違和感を感じる。

相変わらずの、冷たいくらいに表情のない、その人形のような顔は、
以前よりもずっと、美しく見えた。

「・・!! 泰明殿! お顔が・・!」

その顔の半分を仮面のように覆っていたものが、
跡形も無く消えているのだと気付くのに、少し時間がかかった。

「いちいち・・」

泰明殿に、ふいに浮かんだ不快そうな表情に、すこし緊張が走る。


「驚くなと言っている」


声は淡々として、妖の森に響く。
そのまま板に胡坐をかいた泰明殿の、長い髪が、
ふわりと静かに揺れた。


思ったよりもお元気だと、そう安心するよりは、もしかしたら、
彼は大丈夫では、無いのかもしれない。
そんな予感が沸く。


先程、消し飛んでいた不安感が、再び、私のなかで少し姿を大きくした。


 
 
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