ありがとう


自然にすっかり、受け入れられているのだろうかと。

そう思える程に、泰明殿の足取りは軽やかで、
ざわめく木々や生命力で潤んだ地面、全てが彼に優しく見える。

恐らくそれは、山を歩きなれた泰明殿と、
足をもつれさせぬ様に必死に着物の裾を握り締めている私の、
もとよりの、動きの機敏さのちがいなのだろうけれど。

足元を見つめながら、上がる息を飲み込んで足を進めていると、
突然目の前に影が現れて、私はつい、小さく悲鳴をあげた。


いつの間にか立ち止まってこちらを無表情で見つめる泰明殿を、
すぐ傍から見上げた。彼の体に軽くぶつけた鼻を押さえる。


「すみません」

私の詫びに特に答えず、黙ったまま泰明殿が、手を差し出した。
しばらく、それを見つめる。手を貸して下さると言っているのだろうか。

「早くつかまれ」
「あ、はい・・すみません」
「何故謝る」

また、再び謝りそうになって慌てて声を飲み込んだ。

掴んだ手は、さらさらして心地が良かった。
人の手を、こんな風に触るのは、子供の頃以来ではないだろうか。

泰明殿の力が自分に少し移ったように、ぐんと歩きやすくなった山道。

思わずお言葉に甘えて、取ってしまった手だけれど、
ふと客観視した今の状況に、違和感を感じた。


か弱き女人ならば、まだしも、自分は男だというのに。
手を引く泰明殿にも負担をかけていることは明らかで・・。

自分の甘えに危機感を覚えて、胸がざわついた。
時折、振り向いて、私の足元をちらりと確認する泰明殿を、
じっとみつめて、少し思い切って声をかけた。

「泰明殿、あの、やはり」
顔を上げて、泰明殿がこちらに目をやる。何故か恐縮した心、つい目をそらす。

「手を引いて頂いては、申し訳御座いませんので、私ひとりで・・」
「何故だ?」

感情の無い泰明殿の表情が、にわかに、怪訝そうに歪んだ。

「な、なぜ?」
「先程からお前は、よく解らぬ事で謝ってばかり居る」

心底、不思議そうな顔をむけられて、どう答えれば良いか解らず黙る。
繋いだままの手の感触が、なんだか鮮明に思えて、今更ながら恥かしく思えた。

「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なく思ったのです」

私の返答に、相変わらず泰明殿の顔は、不思議そうなまま。

「私には、お前を守る義務はない」

突然かけられた言葉は、冷たい水のように私に鋭くかかる。
反射的に繋いだ手を離したけれど、泰明殿に握られたままのそれは、
解かれることはなかった。

「迷惑だと思えば、お前に手など貸さぬ」

柔らかく感じた声色に、私は顔を上げた。彼は普段と変わりがない表情だったけれど。

「必要無いか?」
「い、いえ、そんなことは! 大変助かっております」
「ならば黙って、この手を使え」

少し遅れて、心にしみ込んだ言葉の意味に、恐縮していた気持ちが、ふと、
掬われるうように開放された。

「行くぞ」
「は、はい」

歩き出した私達の間を、風がすりぬけた。頂上が近いのだろう。

さっきとは違う色のざわめきが、私の心を騒がせた。
繋がった手が、どこか嬉しいような、気恥ずかしいような、
居心地が良いのか悪いのか、判断がつかない。

すこし驚いたせいで、言い忘れた言葉を、私は今になって思いだした。


「泰明殿」

呼びかけてばかり居ては、また怪訝な顔をされるだろうか。
振り返った泰明殿に、ついまた出そうになた詫びの言葉を、私は押し消した。


「ありがとうございます」


笑ったつもりの顔は、緊張で、少しぎこちなかったかもしれない、けれど、
泰明殿の表情は不思議そうでも、どこか柔らかく見えた。





拍手お礼。友情か恋か微妙すぎてわからない。



帰る